古くは南北朝時代(1362~1368年)頃から言い伝えのある十念寺。刈谷の歴史と共に根づく、十念寺の見どころと歴史についてご案内いたします。
十念寺のご案内
刈谷藩主 土井家
江戸期刈谷藩14代目(9家目)から22代目で明治維新を迎えるまでの124年5ヶ月間刈谷を治めた、土井家ゆかりの墓所です。藩祖は土井利長公。徳川家康・秀忠・家光の三代に仕え、大老を努めた土井利勝公の参男に当たります。そのため本堂内には、西尾並びに刈谷土井家の歴代藩主等のお位牌を納めた利勝寺がございます。この利勝寺は十念寺本堂の中にあり「お寺の中にお寺がある」という珍しい作りになっております。利勝寺のご本尊は鎌倉期に作られた阿弥陀如来立像で、旧士族会の一般財団法人刈谷頌和会が管理しております。
土井家の始祖
土井利勝公
土井家の始祖
土井利勝公
元亀4年(1573)、刈谷城主水野信元の子として生まれ(家康の庶子と言う説もある)、土井利昌の養子として成長した。幼名松千代、甚三郎。幼い時より、徳川家康に近侍したという。天正7年(1579)二代将軍秀忠誕生にともない付属、側近となる。天正19年(1591)、千石知行(せんごくちぎょう)となる。
慶長5年(1600)、会津の上杉景勝征伐の秀忠に供奉。使番を務める。
慶長7年(1602)、下総国小見川1万石、慶長15年(1610)、下総国佐倉3万2千石余に移封。
慶長17年(1612)、この頃、秀忠の使いとしてしばしば駿府に赴き、密談に列する。また、国政に関与しないことがないといわれる。家康より金1000両、加増され4万5千石。慶長19年(1614)大坂冬の陣を前に使いとして駿府に。秀忠と家康双方の伝達役となる。秀忠、江戸出発に供奉。四番隊の将として軍団一万を預かる。
冬夏の両陣とも、秀忠のもと左軍大将を勤める。元和元年(1615)、江戸帰還後6万5千石余に加増。
元和2年(1616)、家康薨御、久能山へ葬る時、秀忠名代として参列。寛永2年(1625)、執事職となり、5万石加増、都合14万2千石となる。寛永9年(1632)三代将軍家光に仕える。寛永10年(1633)、佐倉城主をあらため、1万8千石加増16万石下総国古河城主、老中となり幕政に参与、寛永15年(1638)大老となる。従四位大炊頭。明敏で知略に富む性格から一身に信頼を集め、智の大老といわれた。寛永21年(1644)没。
土井家の始祖
土井利勝公
元亀4年(1573)、刈谷城主水野信元の子として生まれ(家康の庶子と言う説もある)、土井利昌の養子として成長した。幼名松千代、甚三郎。幼い時より、徳川家康に近侍したという。天正7年(1579)二代将軍秀忠誕生にともない付属、側近となる。天正19年(1591)、千石知行(せんごくちぎょう)となる。
慶長5年(1600)、会津の上杉景勝征伐の秀忠に供奉。使番を務める。
慶長7年(1602)、下総国小見川1万石、慶長15年(1610)、下総国佐倉3万2千石余に移封。
慶長17年(1612)、この頃、秀忠の使いとしてしばしば駿府に赴き、密談に列する。また、国政に関与しないことがないといわれる。家康より金1000両、加増され4万5千石。慶長19年(1614)大坂冬の陣を前に使いとして駿府に。秀忠と家康双方の伝達役となる。秀忠、江戸出発に供奉。四番隊の将として軍団一万を預かる。
冬夏の両陣とも、秀忠のもと左軍大将を勤める。元和元年(1615)、江戸帰還後6万5千石余に加増。
元和2年(1616)、家康薨御、久能山へ葬る時、秀忠名代として参列。寛永2年(1625)、執事職となり、5万石加増、都合14万2千石となる。寛永9年(1632)三代将軍家光に仕える。寛永10年(1633)、佐倉城主をあらため、1万8千石加増16万石下総国古河城主、老中となり幕政に参与、寛永15年(1638)大老となる。従四位大炊頭。明敏で知略に富む性格から一身に信頼を集め、智の大老といわれた。寛永21年(1644)没。
土井家の歴史
土井家の廟所
土井家の歴史
土井家の廟所
三河刈谷土井家の祖、利長は利勝の三男で西尾藩主。
四代利信が西尾より刈谷に転封、14代刈谷藩主となり、以後22代刈谷藩主利教まで9代続き維新となる。
そんな土井家の廟所が十念寺の本堂西側にございます。
土井家歴代藩主のみならず、奥様・親族のお墓もございます。
塀に囲まれており、普段は防犯のため施錠しております。
土井家の歴史
土井家の廟所
三河刈谷土井家の祖、利長は利勝の三男で西尾藩主。
四代利信が西尾より刈谷に転封、14代刈谷藩主となり、以後22代刈谷藩主利教まで9代続き維新となる。
そんな土井家の廟所が十念寺の本堂西側にございます。
土井家歴代藩主のみならず、奥様・親族のお墓もございます。
塀に囲まれており、普段は防犯のため施錠しております。
お寺の中にお寺
利勝寺
お寺の中にお寺
利勝寺
十念寺の本殿に入ると、本堂向かって左手に「利勝寺」がございまして「お寺の中にあるお寺」と珍しい作りになっております。旧刈谷士族会、(財)刈谷頌和会が管理しており、本尊(阿弥陀如来立像)並びに土井家歴代のお位牌を納めております。
御本尊である阿弥陀如来立像は刈谷市指定文化財です。
お寺の中にお寺
利勝寺
十念寺の本殿に入ると、本堂向かって左手に「利勝寺」がございまして「お寺の中にあるお寺」と珍しい作りになっております。旧刈谷士族会、(財)刈谷頌和会が管理しており、本尊(阿弥陀如来立像)並びに土井家歴代のお位牌を納めております。
御本尊である阿弥陀如来立像は刈谷市指定文化財です。
天誅組と松本奎堂
松本奎堂(謙三郎):天保2年(1831)12月7日刈谷城丸の内(今の司町)の藩邸にて刈谷藩士松本印南の二男として生まれる。生まれながらにして俊敏、幼少より母きかの薫陶を受け、漢字、軍学者の父について学び、3歳で読み書きをし、4歳で「大学」を諳じ、11歳で漢詩を作ったという。文武共に秀でていたが、18歳の時、槍の練習中相手の槍で左目を突かれ失明。人々があわてふためく中「片目でも結句眺めのよしの山」と吟ずる豪胆さであった。22歳刈谷藩から選ばれて江戸昌平黌に学び、舎長にまでなった。後に久能山の家康の廟前でこれを罵るほど激しい気性でもあった。天誅組の総裁の一人として挙兵した時、その軍令書を起草。その純粋にして無私、格調高い軍令書の存在が天誅組の評価を更に高めたと言われている。朝幕による追討軍と吉野山中を転戦中、十津川陣中にて終に両眼を失明、駕篭にて移動中、東吉野伊豆尾にて紀州藩軍勢の銃撃により戦士(自刃)した。享年33歳。遺詠は「きみがため 命死にきと 世の人に 語りつぎてよ 峯の松風」
明治維新の魁
天誅組
明治維新の魁
天誅組
文久3年(1863年)8月13日、孝明天皇の攘夷祈願のための大和行幸が朝廷にて決定された。(この内実は桂小五郎らの献策による倒幕行動でした)これを機に三河刈谷脱藩の松本奎堂、宍戸弥四郎、伊藤三弥。土佐脱藩の吉村虎太郎、備前岡山脱藩の藤本鉄石らが、急進派の青年公卿「中山忠光(明治天皇母方叔父)」を主将に擁し、天皇の大和行幸の先鋒隊として大和へ集結、8月17日に五条代官所襲撃、桜井寺を本陣として五条新政府を開いた。
しかし翌18日、頼みの朝廷の急進尊攘派が一夜にして公武合体派により追放され大和行幸は中止となった。いわゆる有名な”八月十八日の政変”。この政変が天誅組の不運と悲劇の始まりであり、天誅組は一転して窮地に追い込まれた。
引くにひけない天誅組は軍を率いて十津川に進み十津川郷土を加えて高取城を攻撃するも、鉄砲火による猛反撃にあい惨敗。京都では朝幕による天誅組追討令が発せられ、紀州、彦根ら近畿諸藩の討伐軍が集結、天誅組には重囲の中に孤立した。
以後42日間に亘り、吉野山中を転戦、逃避行を続けた後、鷲家口の戦いを最後に天誅組は壊滅した。
明治維新の魁
天誅組
文久3年(1863年)8月13日、孝明天皇の攘夷祈願のための大和行幸が朝廷にて決定された。(この内実は桂小五郎らの献策による倒幕行動でした)これを機に三河刈谷脱藩の松本奎堂、宍戸弥四郎、伊藤三弥。土佐脱藩の吉村虎太郎、備前岡山脱藩の藤本鉄石らが、急進派の青年公卿「中山忠光(明治天皇母方叔父)」を主将に擁し、天皇の大和行幸の先鋒隊として大和へ集結、8月17日に五条代官所襲撃、桜井寺を本陣として五条新政府を開いた。
しかし翌18日、頼みの朝廷の急進尊攘派が一夜にして公武合体派により追放され大和行幸は中止となった。いわゆる有名な”八月十八日の政変”。この政変が天誅組の不運と悲劇の始まりであり、天誅組は一転して窮地に追い込まれた。
引くにひけない天誅組は軍を率いて十津川に進み十津川郷土を加えて高取城を攻撃するも、鉄砲火による猛反撃にあい惨敗。京都では朝幕による天誅組追討令が発せられ、紀州、彦根ら近畿諸藩の討伐軍が集結、天誅組には重囲の中に孤立した。
以後42日間に亘り、吉野山中を転戦、逃避行を続けた後、鷲家口の戦いを最後に天誅組は壊滅した。
若き志士たち
天誅組の人々
幕末の悲運
三家老の墓
幕末の悲運
三家老の墓
刈谷藩からは松本奎堂や宍戸弥四郎などの天誅組にて活躍した人々など、勤王派の志士たちが志を胸に様々な活動をしておりました。
しかし当時の刈谷藩内では勤王か佐幕かの結論が出ず、優柔不断な状況が続いておりました。
そしてついに、尾張藩の意向を知った多米・津田・黒田の三家老も幕府よりの思考から勤王派になることを決断します。
だがその一方、そうとは知らない急進勤王派の藩士たちは、決断を出さない三家老に業を煮やしておりました。そして三家老の決断を知らぬまま、明治元年(1868年)刈谷城大手門外にて三家老を誅殺してしまいます。
あと少し決断が早ければ…動乱の幕末が生んだ悲劇の一つです。そんな三家老の無念を供養するお墓です。
幕末の悲運
三家老の墓
刈谷藩からは松本奎堂や宍戸弥四郎などの天誅組にて活躍した人々など、勤王派の志士たちが志を胸に様々な活動をしておりました。
しかし当時の刈谷藩内では勤王か佐幕かの結論が出ず、優柔不断な状況が続いておりました。
そしてついに、尾張藩の意向を知った多米・津田・黒田の三家老も幕府よりの思考から勤王派になることを決断します。
だがその一方、そうとは知らない急進勤王派の藩士たちは、決断を出さない三家老に業を煮やしておりました。そして三家老の決断を知らぬまま、明治元年(1868年)刈谷城大手門外にて三家老を誅殺してしまいます。
あと少し決断が早ければ…動乱の幕末が生んだ悲劇の一つです。そんな三家老の無念を供養するお墓です。
俳人 中島秋挙や庚申塔・弘法堂
市原の渡し場の賑わいを伝える「夜わたしの今に声あり華さかり」等を詠んだ俳人中島秋挙(刈谷藩士中島左守の長男)の墓。庚申信仰と庚申塔・庚申大祭、(旧)三河新四国霊場の第五十三番である弘法堂など、十念寺にまつわる歴史をさらにご紹介。
江戸時代後期の俳人
中島秋挙
江戸時代後期の俳人
中島秋挙
「夜わたしの今に声あり華さかり」
市原の渡し場の賑わいを伝える有名な俳句を生んだ中島秋挙。
安永2年生まれ、刈谷藩藩士・町奉行を務めていた「中島佐守」の長男です。官職に就いていたが30歳の時に辞職。隠居後の秋挙は俳諧の道に入ります。妻をめとらず各地を旅し奥州、須磨や明石から中国地方などを巡る。
広瀬惟然の句集「惟然坊句集」を発刊したり「病床日記」や「朱樹翁終焉記」を残しております。
文政9年 7月25日
悪性腫瘍が原因で亡くなる。享年54歳。
江戸時代後期の俳人
中島秋挙
「夜わたしの今に声あり華さかり」
市原の渡し場の賑わいを伝える有名な俳句を生んだ中島秋挙。
安永2年生まれ、刈谷藩藩士・町奉行を務めていた「中島佐守」の長男です。官職に就いていたが30歳の時に辞職。隠居後の秋挙は俳諧の道に入ります。妻をめとらず各地を旅し奥州、須磨や明石から中国地方などを巡る。
広瀬惟然の句集「惟然坊句集」を発刊したり「病床日記」や「朱樹翁終焉記」を残しております。
文政9年 7月25日
悪性腫瘍が原因で亡くなる。享年54歳。
庚申信仰
庚申塔
(旧)三河新四国霊場
弘法堂